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ウィスキーエッセイ1

その1.日本のBARの遍歴と共に育ったシングル・モルト・ウィスキー

”都会の中のオアシス”それがBARの本来あるべき姿ではないだろうか。現実から逃れるためにやってきて、心の荷を降ろし、そしてまた気持ちよく現実へと帰っていく。店という建物は現実に一定の場所に存在するのだが、街を’さまよう’旅人によって店はオアシスのようにその姿を変える。それを感じることができたとき、飲み手は最高の喜びを得られ、また、そうすることがバーマンの努めであると私は考える。そんな喜びを求める人々のBARシーンにはやはりシングルモルトウィスキーではないだろうか。なぜならモルトウィスキーは純粋かつシンプルでありながら、シチュエーションや飲み方によってその香りや味わいが微妙に変化するからである。まるでオアシスのように色やカタチまでも様々に姿を変えるカクテルも捨て難いが、ここはシングルモルトウィスキーをお勧めしてみたい。ウィスキーと一口に言っても様々なタイプがあるが(五大ウィスキー)、その中でもスコットランドのシングルモルトウィスキーが見直されているのは何故だろうか。そのわけを日本のBARとウィスキーの歴史や関わり合いの中からひもといていきたい。
 
まず、日本にBARが登場したのは明治2年といわれている。ジンなどの洋酒が輸入されたのもこの頃だが、ごく一部の上流階級の人たちが口にしただけで一般庶民はまだその存在すら知らなかったはずである。1919年(大正8年)、寿屋(サントリーの前身)がトリスウヰスキーを発表。1929年(昭和8年)には現在のニッカの創業者、竹鶴政孝氏と共に開発した”サントリー白札”(現在のホワイト)を発表するがまだまだ洋酒文化には馴染みのない日本人にとってたとえ国産品であっても親しみがわかず失敗に終わってしまう。また、第二次世界大戦突入を機にウィスキー造りも一時休止となる。終戦後カストリやバクダンなどといった得体の知れない酒ばかりが世間に出回る。それでも男たちはそれをあおり、何とかその時代を生きていた。そこで政府は洋酒製造業に対しての規制を撤廃した。それに端を発し各社が競ってウィスキー造りに乗り出した。鳥井信治郎氏(サントリーの創業者)は本格的ウィスキー造りを目指していたが、終戦後の混乱にあった当時の社会状況ではそれもできそうになく、わずか5%だが酒税法に許されたぎりぎりのラインでモルト原酒を使ったトリスウヰスキーを1946年(昭和21年)に復活、発売させたのである。これが爆発的ヒット商品となり、一般庶民もウィスキーを口にすることができるようになった。また、経済の高度成長という背景も手伝って1955年(昭和30年)頃から東京・大阪を中心にまた日本全国に”トリスバー”が登場した。戦前戦後にも銀座には幾つもの本格バーがあったが、主に文壇の作家たちが浪漫を語り合ったり、俳優や芸人達が芸の肥やしに訪れたりと、現実とは少し違う憧れの場所であった。だが、トリスバーは違っていた。主にトリスウヰスキーを扱う店なのでとにかく安い。一般人が毎日通えるくらい安価な酒場であった。飲み方は様々だが、特に炭酸割りは名古屋を境にして東京では”Tハイ”と、大阪では”トリハイ”(いずれもトリスハイボールの略)と、親しまれ、一世を風靡した。同時にハイボールスタイルのカクテルが流行した。ジンフィズやバイオレットフィズのロングカクテルが本格的バーで飲まれるようになり、第一次カクテルブームが起きたのもこの頃である。男たちは小銭を握りしめてトリスバーに通い、高度成長期の日本を支えている自分たちに誇りを持ち、そしてそんな自分たちに酔いしれながら朝まで語り明かした。そんな古き良き時代であった。
 
日本でも洋酒文化が進むにつれ、ウィスキー業界でも革命的な出来事が起きる。スコッチモルト原酒と国産ウィスキーとのブレンドである。スコットランドのブレンデッドウィスキーは数多くのモルトウィスキー蒸留所の原酒を使用するのに対し、日本では自社生産のモルトウィスキーとグレーンウィスキー、スピリッツをブレンドしてきたので、洋酒文化の発展に伴いモルトウィスキーが不足してきたのである。それを補うために昭和35年以降、スコッチのモルトウィスキー輸入がはじまり、国産モルトウィスキーとのブレンドがはじまったのである。日本のウィスキーがブレンデッドスコッチウィスキーと似ているのはこのためである。国産ウィスキーの味がブレンデッドスコッチウィスキーと似ていくにつれ、人々は外国のブランドにも興味を抱きだした。昭和40年以降は一家に一台テレビと冷蔵庫が揃うほど生活水準は向上し、国産ウィスキーは家庭で、また一方では本格バーなどに足を運びカクテルやスコッチウィスキー、バーボンウィスキー、ブランデーなどを飲むようになっていった。そしてトリスバーの大半は居酒屋やスナックへと姿を変えていったのである。まるで、オアシスのように...。
 
少し前までは洋酒を飲む行為を人々は一つの事件と考え、またそれが格好良かったのだが、日本経済が安定期に入るとその行為は日常生活の一部として考えられるようになってきた。(ちなみに私にとっては、必要不可欠な行為である)仲間と気軽に居酒屋やスナックに飲みに行き、会社の接待などでは高級クラブに足を運び、そして自分自身の安らぎのために一人で、または大事な人との語らいのためにバーなどで洋酒を飲むようになってきた。人々がお酒やお店の使い分けができるようになってきたのである。飲むという行為が生活の一部から、さらに飲食文化へと進化していく、そんな1970〜1980年代であった。そして1980年代後半から1990年代前半にかけて第二の革命的出来事が起きる。大手洋酒メーカーがシングルモルトウィスキーの輸入販売を行うようになったのである。それまでのシングルモルトウィスキーの大半は小規模な輸入業者や百貨店などが販売を行っており、大手洋酒メーカーはせいぜい一銘柄を扱っている程度であった。バブル時代の大手メーカーは大量のケース単位で商品を卸せるホテルや高級クラブに力をいれていたため、主にプレミアムウィスキーやブランデーなどの商品を輸入販売してきた。1980年代後半、経済安定期と共に各社とも自社ブランドのレベルアップを考え、スコットランドの蒸留所を買収したり、株を取得して共同経営者になったりしたのである。小規模な輸入業者から大手メーカーへの販売権移行である。確かにそれまでにも数多くのモルトウィスキーが販売されていたが、ごく一部のバーマンや飲み手にしか知られていない、そんな存在だった。しかし、大手洋酒メーカーが扱いはじめた途端にシングルモルトウィスキーブームが到来したのである。特にサントリーが”ザ・マッカラン”、”トーモア”、”ボウモア”を発表したときには一台センセーショナルが巻き起こった。プレミアムのブレンデッドウィスキーに比べて多少割高だったような気もするが、その味わいや土地々々の蒸留所の伝統や神秘的な部分にふれることができ、とても新鮮な気がしてならなかった。外国文化がそしてスコットランドがとても身近に感じられた、そんなウィスキーであった。だが、そんなブームも長くは続かなく、バブル崩壊後低迷の時期を迎えるのである。シングルモルトウィスキーもバブルの落とし子となったのか?いや、それは違った。ただの流行りものではなく、その根底にある奥深さを知ったバーマンたちはたとえコストがかかったとしてもボトル棚からその姿を消してしまうどころか、より多くの蒸留所のモルトウィスキーを揃えていったのである。そして、ここぞというシーンに出会ったときは、シングルモルトウィスキーを差し出していった。そして、大手洋酒メーカーに主要銘柄を取られてしまった小規模業者は、半ばモルトウィスキー専門へとそのスタイルを変えながら大手にはない様々なタイプのモルトウィスキーを提供し、私たちにその幅の広さを教えてくれた。そして、1995年に出版された土屋守氏による初版”モルトウィスキー大全”や古屋三敏氏の酒コミック”レモンハート”などの刊行物によってモルトウィスキーの楽しみや奥深さを知らされたのである。その後、1997年10月1日の酒税法改正で手軽な値段で洋酒が楽しめる時代になってきた。そして、再びシングルモルトウィスキーが見直されるようになったのである。だが、今回はただのブームでは終わらない気がしてならない。なぜなら決して大手洋酒メーカーがその戦略において仕掛けた行為ではなく、バブル崩壊後に消えかかったモルトの灯をともし続けたバーマンや飲み手によって復活したといっても過言ではないからである。どこかのキャッチコピーにもあるように”永い眠りからさめたウィスキー”それが今花開いたのである。そして、シングルモルトウィスキーは度重なる困難を乗り越えながら進化し、飛躍し続けるだろう。まるで、オアシスを求めてさまよう旅人のように。
                                          つづく...。